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全ての事柄は、神の国において、帳尻が合う

★箴言第11章17節,24~26節にはこうあります。(17)いつくしみある者はおのれ自身に益を得、残忍な者はおのれの身をそこなう。(24)施し散らして、なお富を増す人があり、与えるべきものを惜しんで、かえって貧しくなる者がある。(25)物惜しみしない者は富み、人を潤す者は自分も潤される。(26)穀物を、しまい込んで売らない者は民にのろわれる、それを売る者のこうべには祝福がある。★節は飛んでいますが、17節にある「いつくしみある者」に該当するのが、それぞれ「施し散らす者」、「物惜しみしない者」、「人を潤す者」、「穀物を、しまい込まず売る者」と読むことが出来ます。そうしますと、「おのれ自身に益を得」とは「散らしても、なお富を増す」ことであり、「自分も潤され」、「こうべには祝福が臨む」と言えます。★このように整理しますと、この種の箴言は、通常の御利益信仰と何ら変わることがないように思えますが、実は、相当違うのです。聖書の世界観、即ち、キリスト者の世界観で言えば、「全ての事柄は、神の国において、帳尻が合う」という理解なのです。もし、この世の人達と同様に、自分が生きている間に全ての帳尻が合うことを考えているとしたら、恐らく、この種の箴言は、歴史的な検証の結果で言えば、「そう言える時もあるし、そう言えない時もある」となるように思います。★「受けるよりは与える方が、さいわいである」という主イエスの言葉もまた、同様です。「さいわい」の定義の問題とも言えますが、「全ての事柄は、神の国において、帳尻が合う」のです。キリスト者の時間感覚は、この世の人達が考えるよりは、はるかに遠大です。
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