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被造世界に織り込まれた神的知恵

★箴言第8章に記された「知恵」の位置づけはこれです。(22)主が昔そのわざをなし始められるとき、そのわざの初めとして、わたしを造られた。(23)いにしえ、地のなかった時、初めに、わたしは立てられた。(24)まだ海もなく、また大いなる水の泉もなかった時、わたしはすでに生れ、(25)山もまだ定められず、丘もまだなかった時、わたしはすでに生れた。(26)すなわち神がまだ地をも野をも、地のちりのもとをも造られなかった時である。(27)彼が天を造り、海のおもてに、大空を張られたとき、わたしはそこにあった。(28)彼が上に空を堅く立たせ、淵の泉をつよく定め、(29)海にその限界をたて、水にその岸を越えないようにし、また地の基を定められたとき、(30)わたしは、そのかたわらにあって、名匠となり、日々に喜び、常にその前に楽しみ、(31)その地で楽しみ、また世の人を喜んだ。★読んでの通り、第一に、知恵が人格的存在であることがわかります。第二に、知恵が創造の御業に関与していた可能性が推察されます。そして第三に、人格的存在である知恵が、私たち人間(世の人)を喜んでいることが分かります。★3つの中の第二点に的を絞れば、キリスト者としては、被造世界には「知恵が織り込まれている」という判断ができます。被造世界を丹念に、熱心に、そして真面目に観察する者は、被造世界の持つあまりの不思議と素晴らしさの故に、創造者の存在を感じざるを得ないと私は思います。その感動に素直に従うことが、主イエスの語られた、「幼子のような信仰」の核心です。★とは言え、人間的知恵が神的知恵に置き換わるためには、人間の側は、コペルニクス的転換を必要とするのでしょう。
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