牧師のページ

キリスト者の歩みは、立ち返り(悔い改め)の連続


★主イエスのご降誕を心から喜び、感謝いたします!★私たちは、様々な人達に出会い、その声を聞きます。それと同様に、私たちは、福音書を通して、主イエスに出会い、その御声を聞きます。主イエスはこう語られます。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」もちろん、直接話法ですから、この言葉は現在形です。しかし、信仰的に言えば、主イエスは、今でも現在形で、この言葉を私たち一人一人に語りかけ得るのです。★なぜでしょうか?主イエスに起きたことが、そのことを明らかにしています。ご存知のように、主イエスは十字架の上で死なれました。しかし、主イエスは三日後に復活されたのです。主イエスの復活は、とても単純な事実を告げています。それは、主イエスが今も生きて働くことがおできになる、ということです。主イエスは、現在的な御方として、現在的な言葉を私たちに語ることがおできになるのです。★このことを知る時、「だれでもわたしについてきたいと思うなら‥」というこの言葉が、新しく招かれている人達に対してだけではなく、既にキリスト者である私たちにも意味を持つことが分かります。それは、例えば、私たちが自由の幻想に酔い、信仰の歩みから遠く外れ、キリスト者である自分を見失っていることに気付いた時です。その時、主イエスはこう語られるのです。「だれでもわたしについてきたいと思うなら‥」★この言葉は自発的な選択を求めています。「わたしについてきたいと思うなら‥」とのこの言葉は、立ち返り(悔い改め)への招きとなります。そして、私は、この立ち返りへの招きがあるので、キリスト者は立ち直れるのだと信じています。
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