神のかたちに創造されたわたしたちの心は応答的意志を持つ
03/12/17 00:00
★ヨハネによる福音書5章に、ベテスダの池で主イェスにより病気を癒された人の話が記されています。このように記されています。(02)エルサレムにある羊の門のそばに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があった。そこには五つの廊があった。(03)その廊の中には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者などが、大ぜいからだを横たえていた。〔彼らは水の動くのを待っていたのである。(04)それは、時々、主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。〕(05)さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。(06)イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。(07)この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。(08)イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。(09)すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。その日は安息日であった。★この箇所のハイライトは恐らく、主イェスがこの病人に対して「なおりたいのか」と尋ねたことでしょう。そして、この問いかけに対する病人の答えは様々に説明できると思いますが、私はこの病人は「なおりたい」と答えていると聴き取ります。★神のかたちに創造された人間には、どんなに絶望する状況に置かれたとしても、“主”に対して「~したい」という応答的意志を働かせる力はあるのです。