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ゆるぎない信頼関係の保証

★復活の時から少し時間を戻し、ゲツセマネの園での主イェスのお姿に目を向けます。マタイによる福音書の記す全体の中で、次の出来事に目を止めます。(38)そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。(39)そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。★ここに記されているのは、十字架刑に処せられる前に主イェスが語られた率直な願いです。「もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」この言葉が主イェスの口を通して語られたことによって、私たちは大きな慰めを得ます。この時の主イェスのお姿が示しているのは次のことです。「これが自分に与えられた使命だ」と確信する者たち、あるいは、そのような確信を与えられていると信じる者たちではあっても、その使命を回避したいとの願いを心の中に持つことは、当然の事なのだという事実です。★このことの故に、続く「しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」との主イェスの言葉が、無力感から来る「あきらめ」の言葉ではなく、「運命には逆らえない」という諦念からくる言葉でもないことが分かるのです。「父なる神」に対して「率直に、恐れなく、やましさもなく」自らの願いを語ることが出来る「信頼関係」があるからこそ、「父なる神のご意志」に信頼して、「みこころのままになさって下さい」と、「明確な意志」を込めた言葉を語り得るのです。★主イェスの復活という出来事は、私たちもまた、そのような「信頼関係を父なる神との間に持ち得るのだ」ということの保証であります。
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