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信仰義認と聖化

★ガラテヤ教会のキリスト者に向けて語られたパウロの言葉にこうあります。「ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。」「あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。」これらのパウロの言葉は、律法行為の実行によって義とされるという異端的教えに惑わされている人たちへの叱責の言葉です。★更にこう続きます。「あなたがたに御霊を賜い、力あるわざをあなたがたの間でなされたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。」聞いての通り、信仰義認が力説されています。ある人たちにとっては、「救いは信じて受け取るだけでよい」というこの単純さがかえって「つまずき」になることを示しています。★行い義認に立つ人の特徴は、「見える形の行為が『救い』の確信を支える」という理解です。これに対して信仰義認に立つキリスト者は、「見える形の行為が『聖化』の確信を支える」と理解します。確かに両者共に、律法の命じる行いを自分自身が実行できた時、心には満足と安心が与えられます。しかし、実行できない時、行い義認に立つ人は、不確かな救いをなんとかしなければなりません。これに対して信仰義認に立つキリスト者は、「自分が、完全に聖くなくても、完全に義とされている」ことを知っています。ですから律法を生きる勇気を与えられるのです。
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