牧師のページ

わたしのうちに生きておられるのは…

★洗礼者ヨハネの示した「与えられた使命に徹する姿勢」について記した聖書箇所があります。(26)彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。見てください。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます。」(27)ヨハネは答えて言った。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。(28)あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である』と私が言ったことの証人です。(29)花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。(30)あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。★この箇所からわかりますように、洗礼者ヨハネは、「キリスト」を指し示す使命に徹していました。「あの方(=キリスト・イエス)は盛ん」にならなければならないし、逆に、自分は「衰えなければ」ならないのです。★この姿勢に対して、洗礼者ヨハネの位置と類似した位置に立つ働き人が「自分が盛んになることによって、あの方(=キリスト・イエス)が盛んになるのだ」という考え方を持つ場合があります。「どこがおかしいのか?」と問われた場合、簡単に論ずることはできないのですが、何かが少し違うように思えます。★「あの方(=キリスト・イエス)が盛んになる」ことを目指す生き方の中に雑音が入り込むとしたら、雑音の核にあるのは、恐らく「自分(の罪)」でしょう。多くの場合、外側の姿はそのまま内側の姿の反映です。「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」とはパウロの言葉ですが、働き人に限らず、キリスト者の場合は、この言葉の到達度に比例した姿が外側に現れてくるのだと思います。キリスト者は、内住してくださる御霊に信頼するのです。
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