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「キボコク」を支えるものを考える

★先週の根田氏のお話の中で、KGK(キリスト者学生会)のメンバー達は先の国会開催時、国会議事堂前に集まり「祈った」とお伝えくださいました。この学生達は省略名「キボコク」のメンバーで、その名称が意味するのは、国会において多数を占める政党による安全保障法制が強引に採決されようとする状況の中でも「希望を告白しよう」という信仰的な表明です。★このキリスト者学生達がどのような根拠に立って「キリスト者はどんな時でも希望を告白できる」と考えておられたのか、私は確認してはいませんが、大変教えられました。★私自身、1983年に東京基督神学校に入学し、最終学年の時に「聖書神学」に出会い、神学的な表現で言えば、創造主と被造物である人間は契約を通して結びついており、被造物である人間は、創造から終末(創造の完成)という(遠大な)歴史的展開の中に置かれていること、また同時に、この被造世界を創造主より委託されており、創造の完成に至るまで創造主の御旨に従って正しく管理する責任を与えられ所持しているという「歴史的な視点」を学びました。しかし、この視点が自覚的な言葉として現実化されたのは、恥ずかしい限りですが、ここ数年のことであります。★より正確に言えば、主イェスによる贖罪は、創造主ご自身が開始された歴史を創造主ご自身が完成され、その時に登場する神の国に住まう神の民を集めるためであり、その神の国の登場は、今の被造世界の全てを白紙にしてしまう形ではないのだ、という神の国理解が明確になったこともです。★この歴史的な視点に立てば、歴史の真の支配者は、歴史を開始され、維持し、完成へと導かれる創造主ご自身であるのです。ですからキリスト者は、どのような歴史展開の中に置かれようとも、希望を持つことができるのです。
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