牧師のページ

「可能(積極)思考」を位置づける

★今朝は「可能(積極)思考」について考えたいと思います。「私たちには無限の可能性がある」。私自身もこの言葉に触れた当初、その真理契機に心を踊らせた時期がありました。ところが、その言葉から一歩引いて過ごすうちに、この言葉をキリスト教信仰の中でどのように位置づけたら良いのかを考えるようになりました。もう少し丁寧に語れば、「可能思考」をキリスト者が語る事とキリスト者ではない人達が語る事とは何が同じで、何が異なるのかという問いです。★もちろん、正解を得たというわけではないのですが、一つの気づきを与えられました。一般に「可能(積極)思考」とは、ある目的と結びつき、その結びついた目的に到達させるように、人が思考を機能させようとすることと言えます。このことをふまえて、この機能は「応答関係の中で働く」という視点で考えてみます。そうしますと、この思考機能が「日本の将来」とか「人間(自分)の夢」と結びつけば、人は、それらに応答する形で「私たちには無限の可能性がある」と語ることになります。★これに対して私は、この思考機能は、本来創造主(の語られる言葉)との関係の中で働く応答機能ではないかと考えるのです。つまり「被造物である人間」は「創造主の口から出る言葉によって生きる」という応答関係性の中で、です。ですから、この思考機能を創造主との関係性から切り離してしまうと、即座に「人間の夢や希望」に応答し、究極「人間の欲望」そのものに応答するように機能してしまうのではないかと考えるのです。★キリスト者は、創造主との関係性の外に「可能(積極)思考」を置くことはできないのではないかと思います。
RapidWeaver Icon

Made in RapidWeaver