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「魂」の課題

★私達人間が「生きる」ことを考える時、聖書を通して教えられる最も重要なことは、「私たちは誰を愛して生きる存在なのか?」という問いに対して明確な答えがあることです。ある律法学者との問答から分かりましたように、この答えには、二つの焦点があります。私たち人間は「創造主を愛して生きる」存在であり、私たち人間は「自分(を愛するの)と同じように隣人を愛して生きる」存在だということです。★このことをふまえて主イェスの語られた1つの譬を聞きます。
(16)「ある金持の畑が豊作であった。(17)そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして(18)言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。(19)そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。(20)すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。(21)自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。
★読んでの通り、この金持の「愚かさ」とは、自分の「魂」を支えているのが「穀物や食糧」だけであって「創造主」が支えているという視点が抜けているということです。今考えている文脈で言えば「創造主を愛して生きる」という視点が抜けているということです。このことから明らかなように、聖書を知らないということは、「創造主」を知らないということであり、「創造主」を知らないことは、究極「魂」の課題を正しく扱うことが出来ないということです。
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