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言葉は肉体となった

★ヨハネによる福音書1章14節にこうあります。「言(ことば)は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。」言葉が肉体となるという発想は異邦人(日本人)からすれば荒唐無稽に映ることはやむを得ないことです。しかし、創世記を与えられたユダヤ人からすれば、それほど驚くべきことではないと思えます。★創世記1章3節にはこうあります。「神は『光あれ』と言われた。すると光があった。」このように、創造の御業とは、主なる神様の語られた“言葉”どおりに“事柄”が現れたことを伝えています。ユダヤ人からすれば、創造主にあっては、言葉は事柄と同じであります。★この視点を延長すれば、主なる神様のご計画は広い意味での“言葉”です。ですから救いのご計画が“出来事”として現れてくることは、了解できるはずです。預言者イザヤを通してもこう語られています。「天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。」★ヨハネは同18節でこう記しました。「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。」この言葉が語る通りです。「ひとり子なる神(イエス)」の存在全体が「神をあらわす言葉」そのものなのです。逆に言えば、「神をあらわす言葉」が、歴史の中で出来事となりました。クリスマス、即ち、主イエスの誕生は、その出来事のはじまりです。後は主イエスの語られた言葉が完全に成就する時を信仰を持って待つのです。
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