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キリスト者の応答を呼び起こすもの

pcd11021
★キリスト者の生きる姿勢の中で「仕える」という姿勢があります。主イェスの言葉で言えば「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」(マルコ10:4345)。★キリスト者がこの言葉を知っているからといって、仕える姿勢で生きることは簡単なことではありません。ですから、パウロも次のように勧告しています。「あなたがたの歩きかたによく注意して、賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き‥(略)‥そしてすべてのことにつき、いつも、わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、父なる神に感謝し、キリストに対する恐れの心をもって、互に仕え合うべきである」(エペソ5:1521)。★簡単ではないけれども、キリスト者である「私」が仕える姿勢を実践する根拠は何処にあるのでしょうか?ヒントは先に読んだ「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり‥」の言葉です。つまり、主イェスに「倣う」ということです。文脈としての主題は異なりますが、ペテロが次のように語っています。「あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである」(Ⅰペテロ2:21)。★キリスト者である「私」が、主イェスの「模範に倣う」という生き方をするとすれば「神が‥わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」と語られるこの「」に応答する時でしょう。
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