愛の律法の背後にある愛を考える
27/12/09 00:00
★「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ。」これは主イエスによる律法要約、その2であります。この律法要約から理解されますように、愛を教える律法の場合、「自分を愛するように」ということが先にあるということです。★この点をどう考えるかによって、キリスト者の具体的な行動は変化します。以下、表現を誇張しますが、第一の態度は、この言葉を無視し、「あなたの隣り人を愛せよ。」という所だけを強調する立場です。これは大変素晴らしいのですが、「自分を愛するように」という要素がまずあることを無視していますから、この立場を徹底して生きるなら、恐らく、行き詰まります。★第二の態度は、「自分を愛するように」という要素を認めるのですが、あくまでも自分(人間)の持つ尺度で愛を解釈する立場です。この立場は、最終的に「自分が生きているからこそ、相手を愛せるのではないか」という存在の問題に至る時、ジレンマに突き当たります。★第三の態度は、「自分を愛するように」という言葉の背後に、「主なる神様が自分を愛してくださったその愛で」という言葉を聞き取る立場です。もちろんこのように語ったからと言って、キリスト者が、いつでも第一や第二の立場を回避できているわけではありません。しかし、自分と隣人とが共に、主なる神様の愛によって創造された存在であるという「創造価値における対等性」と主イエスが十字架の上で、その命と引き換えに贖罪の愛の中に招き入れようとしている存在であるという「贖罪価値における対等性」との二つの愛を土台に置くなら、その土台に立った判断が行動化すると信じるのです。神の愛から離れた愛の定義は、キリスト者のものではありません。