牧師のページ

遅々として進まないように見える信仰の転換を裁かない

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★加藤常昭先生が大変興味深い記事を伝えてくれています。★こんな記事を週刊誌で読んだ。東京近郊にホテルが新築され、例によってチャペルが添えられた。どこかの教会に委ねて教会としての営みをしてもらってもよいと一度は考えた。ところがはたと気がついた。教会は葬儀もする。結婚式場となる礼拝堂で弔いを出すなどとは縁起でもないと、このアイデアは消えた。★この記事を受けて、先生は次のようにお語りになります。葬儀、死者は穢れているというのは日本古来の信仰である。神社に死体が置かれることはない。私たちは、礼拝堂の中央に遺体を置く。参列者にお清めの塩を配ることもない。死を明確に見つめつつ、そこでこそ「霊の思いは命と平和」である。その思いは揺らぐことはない。★加藤先生がこの言葉を書かれたのは、恐らく、キリスト者となった後でも、この日本古来の信仰にとらわれているキリスト者を見聞きしたからではないかと推察します。★心理学の知見により、わたしたちの心は、幼少の頃に持った体験を原体験として、その周囲に、多くの類似した追体験が積み重ねられていることを示してくれました。この意味で言いますと、キリスト者となったら即座に、日本古来の信仰から解放されてしまう、という考え方は、大変魅力的ではありますけれども、現実的に言えば、「そう単純ではない」と言えます。★人を裁くことはとても簡単ですが、よくよく自分自身を観察してみますと、形が違うだけで、頑として動かない日本的なものが居座っていることが分かります。日本的なものからの解放が、遅々として進まないことを自覚しつつも、裁かずに、赦しの中で取り組みましょう。
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