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祈りの道が開かれている根拠

pcd07067
★ルターが「祈ること」に関して、次の文章を書いています。「◇もし、あなたが、自分は祈るに値するようになり、上手に祈れると思うまでは祈りたくないと言うなら、あなたはもう祈らないがよい。なぜなら、私たちの祈りは、私たちの価値に根拠があるのではなく、神の約束の不変の真理に基づいていなければならないからである。◇祈りが、私たち自身や、何か他のものによりどころがあるときには、たとえそれがおおげさな敬虔の念で心は砕け、むなしい血の涙を流していても偽りであり、あなたは惑わされているのである。なぜなら、私たちは祈るに値しないから祈るのであり、さらに、私たちは値しない者であるが、神のまことにのみようやく自分を賭けているのを信じることによって、私たちは祈るに値する者となり、聞かれるようになるからである。◇だから、生涯あなたは、心掛けておきなさい。あなたは祈るに値する者であるとか、上手に祈れると決して思わないこと、また、自分は、恵みの神のまことの確かな約束の上に委ねて自由でありうる無鉄砲な人間であるとだけ思っているように。」★このルターの言葉のように、一面「私は人間的にするのに相応しくなったから、私にはすることができる」という考え方はおかしくはないのです。しかし、「対創造主」という事柄になると、人間の側から、「私はに相応しい者です」とは決して言えないということが真実なのです。そして、「対創造主」に対しては、「相応しくない者」だからこそ「開かれている道がある」という、驚くべき逆説があるわけです。★「創造主からの恵み」とはそのようなものなのだとつくづく思わされます。
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