牧師のページ

耳のある者は聞くがよい

★私のキリスト教との出会いは、米国から来ていた短期宣教師たちでした。同じ大学生として会話し、旅行し、共に時間を過ごしました。洗礼を受けるきっかけは、短期宣教師たちの帰国でした。2,3年のうちに一人また一人と帰国して行きました。感情的表現すれば「深い悲しみ」でした。彼らとの接点がキリスト教信仰でした。所定の学びをJ宣教師と行い、洗礼を受けました。今から思えば、その時がキリスト教信仰の入口でした。★つまり私の場合、洗礼を受けてから、主イェスの福音との格闘がはじまったのです。様々な問いを持ち出すことができますが、当時の問いで言えば、「何故救い主はイエス・キリストでなければならないのか」という問いでした。主なる神様の立てられた救いのご計画は遠大です。聖書の啓示する「罪からの救い」を「私」という一人の人間が理解し、信じ受取り、信仰として告白するために、主なる神様は忍耐を持って時間をかけて下さいます。★信仰告白とは、ペテロの言葉で言えば、「あなたは神の子キリストです」であり、トマスの言葉で言えば「わが主よ、わが神よ」でありますが、この信仰告白を「最後まで持ち続ける」ことが、キリスト者の歩みです。だとするなら、その歩みを支えるのは、一体何でしょうか?答は明確です。創世記から始まってヨハネの黙示録に記された全ての言葉を聞くことです。「イスラエルよ聞け。(申命記6:4)」、「耳のある者は聞くがよい。(マタイ11:15)」、「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。(黙示録2:7)」。御言葉を聞き続けている限り、そこに導きの光はあるのです。
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