終末の到来を意識する信仰
27/12/15 00:00
★2015年の年末にあたり、コラムで確認しますのは、教会暦の視点ではなく、終末的な視点です。★(1)‥イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。(2)「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた。(3)ところが、その同じ町にひとりのやもめがいて、彼のもとにたびたびきて、『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』と願いつづけた。(4)彼はしばらくの間きき入れないでいたが、そののち、心のうちで考えた、『わたしは神をも恐れず、人を人とも思わないが、(5)このやもめがわたしに面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。そしたら、絶えずやってきてわたしを悩ますことがなくなるだろう』」。(6)そこで主は言われた、「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。(7)まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。(8)あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。★キリスト者が御言葉を通して教えらるのは、焦燥感や悲壮感に押し出されてではなく、安心感に保持されて「世の終り」を心に止めることです。★「創造主の視点から判断して不義であること」が大手を振って歩いているのは、何も「イスラム国」問題だけではありません。歴史の主導権を握っていて下さる「創造主」が、世界を覆う不義に対して「正しいさばきを行って下さる」約束は、時が来れば必ず成就するのです。必要なのは「祈りつつ、出来ることを実行しつつ、忍耐して待つ信仰」です。