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「コロナ禍」であるからこそ考えなければならないポイント

★新型コロナ感染症が拡大している真っ最中、国民が、安定と安心の心で、物事を冷静に考える時間を持てないでいる時に、特措法等の改正が進んでいます。「何で事前に準備しておかなかったのか!」という声が上がる中、悪く勘ぐれば(根拠はもちろんありません)「事態がその様になるのを待っていたのだ」とも考えてしまいます。★ともあれ、加藤常明先生の次の言葉が示唆に富んでいます。◆ヨハネによる福音書第6章は、群衆にパン5つと魚2匹を分け与えて満腹させた主イエスの御業を書いている。記述は平静である。しかし、実際には大変な興奮状態の中で事が進んだと思われる。◆「そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」◆好きなだけ食べさせてくれる王を求める。逃れる主イエスを必死になって追いかける民。主はこの「王待望」を斥けられ殺された。◆民主主義になっても私たちが求める権力者も同じではないか。この求めを満たす者が王となる。◆ヒットラー批判が当然のドイツを訪ね、民衆と語ると、1933年、ハーケンクロイツの旗が全土に翻るや、たちまちインフレが収まり、失業者が減り、高速道路が出来、軍備が整い、国際的劣等感が拭われた興奮の日々を懐かしむ声を聞いた。◆主はこの興奮を斥けられた。★「安定と安心を与えることが出来る権力者」を求める心は緊急時に正しく機能するのか?国民の為に、この問いを考慮している姿が見えない権力者を信頼することは、私には難しい。
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