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「聖化の歩み」と「自らの正しさ」との関係はかなり厄介です

「聖化の歩み」と「義」との関係を誤解するキリスト者は少ないと考えます。それに対して「聖化の歩み」と「自らの正しさ」との関係は、キリスト者として厄介な課題となります。★ルターがこの問題に関して語っていると思われる文章を紹介します。◆あなたの行動が、いかに正しくきよく罪がなく、神々しいほどのものであったとしても、あなたは畏れをもって謙虚に行動し、常に神の戒めを畏れ、あなた自身にではなく、ただ神のいつくしみにのみ信頼すべきである。◆ユダス・マカベウスが大いに正当な戦いで打ち殺され、また、他にも彼らの多くが、賞賛に値するようなよい事件や行動のただなかでも殺されたのは、士師記20章にイスラエルの子たちについて書かれている通りであるが、それは、彼らが神を畏れず、自分たちが正当であることのみに頼り、神のいつくしみに信頼せず行動したからにほかならない。◆パウロがコリント人への第一の手紙第4章35節でこう言っている。「わたしは、自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではない。だから主が来られるまでは、何事についても、先走りをして裁いてはいけない。 主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、 心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう」。◆ルターの考えに全て賛成というわけではありませんが、キリスト者は、自らが「死のからだ」である事を忘れてしまうと、自らの持つ「小さな正しさ」を持ちだし「神のいつくしみ」を忘れてしまう結果となるのです。
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