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私たち罪人にとっての究極の隣人イエス


★今日学びます、良き(慈悲深い)サマリヤ人の譬えは、様々な説教を生みました。この意味では、説教者泣かせの譬えですが、別な言い方をすれば、「その解釈も可能ですよ!」ということで、懐の深い聖書個所とも言えます。そのように思いつつ、他の福音書を調べてみますと、マタイによる福音書第11章25節〜30節にこう記されています。★そのときイエスは声をあげて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことにみこころにかなった事でした。すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。(25〜27)すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。(28〜30)」★読んでの通り、良き(慈悲深い)サマリヤ人の譬えが続いてはいません。しかし、主イエスによる28節〜30節の言葉は、良き(慈悲深い)サマリヤ人の譬えを読み解くヒントを与えてくれます。なぜなら、主イエスこそが「(罪の)重荷を取り去って下さる御方である」という文脈を与えてくれるからです。★現在では不人気ですが、「慈悲深いこのサマリヤ人こそ主イエスご自身である」と解釈する立場があるのです。★私たち罪人にとっては、究極の隣人こそ主イエスであられます。両福音の文脈は見事に一致するのです。
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