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本心に立ち帰る

★主イエスの語られた放蕩息子の譬え話の中で、弟息子が父親の元に立ち帰るくだりを読みます。「(15)何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。(15)そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。(16)彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。(17)そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。(18)立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。(19)もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。」★主イエスは、放蕩息子の転換点を「本心に立ちかえって」と語ります。この「本心に立ちかえって」という言葉が、聖書で言えば「悔い改め」にあたります。そこで問いです。私たち日本人は、「本心に立ちかえる」という言葉を聞くと何を連想するのでしょうか?これは、私だけの思いかもしれませんが、振り出しに戻る、原点に立ち返る、スタート地点に戻るとなるでしょうか。これらの連想から思うのは、戻る時の力点はどちらかといえば場所にあります。それに対して、譬え話の作り方そのものが示していますように、主イエスが置いている力点は、そこで待ってくれている人格の存在です。聖書が求めている「悔い改め」は、場所を目指すのではなく、赦しを持って待ってくれているお方(人格)を目指すのです。
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