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「被造物である人間」という理解

★感情的な要素は一旦脇に置いて述べます。自分をも含め、1つの主張を語る人を見る時、恐らくその人は自らの持つその主張は真理だと確信していると思います。ところが、世の中にはその主張と正反対の主張を真理だと主張する人達が存在します。この時必要な事は、相手の主張と自分の主張との相違が何処にあるのかということを明確にする手続きです。この手続きを丁寧にしかも真摯に踏むことによってそれぞれの主張が持つ論理性が磨かれ、主張の内容も整えられることになります。★その際にもう一つ重要な事があります。両者がそれぞれ相手の主張と向き合いつつ、この手続きを丁寧に踏んで行った場合、自分の持つ主張の誤りに気づくことがある、ということです。その時重要なのは「人間は誤り得る存在である」という単純な真理を受け入れるかどうかです。★自分の主張の持つ「誤り」に気づいた以上、次に考えることは、この単純な真理に立ち、自分の主張はどうしてそのような「誤り」を生んでしまうのかということを考えることです。★このステップを正直に踏んで行きますと、自分の主張が立っている土台(主張の出発点)に存在する、「ある言語化されていなかった思考」が原因ではないかと気づくはずです。キリスト者であれば、それが「罪」の問題そのものと気づくのではないかと私は考えます。この場合の「罪」とは、個々の「罪過」のことではなく、律法の原点に位置する「十戒」に違反するということです。★この場合の「十戒」とは「人間が人間として生きるための原則である」ということではなく「被造物である人間が被造物である人間として生きるための原則である」ということです。
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